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<回顧録> 奇人の作り方=第5節 |
音楽教室の先生が、恩師への紹介を考えてから、僕は音楽教室を辞めることを薦められ、先生の御自宅へレッスンに通うことになりました。
1時間、みっちりとレッスンをできる環境を整える必要性と、音楽の基礎知識をつけてあげようと考えて下さったからです。(週2回通いました)
楽典を一通りやり、ブルグミュラーを終え、チェルニーの100番をかなりのハイペースで教えて下さいました。
先生のお宅は、僕の家から歩いて30分程の山の上にありました。
雨の日も、風の強い冬の日も、僕は歩いて通いました。
冬は手がかじかんで、最初は指がうまく動きません。
夏も汗だくで家に伺いますが、特に飲み物などは出されません。
まあ、当たり前といえば当たり前ですが、この通ったという事実というか積み重ねが、後々僕をいろいろと救ってくれた気がしていて、通うということも大事な事だったと今振り返って思うのです。
自宅レッスンに通ってから一年後の頃には、僕はすっかり作曲への興味が増し、小品をいくつか書いていました。
「作曲を勉強したい」
そう先生に伝えると、先生は「作曲にはピアノも大事だから、ピアノの先生と作曲の先生を紹介するわ」とおっしゃって下さって、どちらも先生の恩師であられた二人の先生を紹介していただきました。
作曲の先生は内田勝人先生。東中野のマンションへ伺いました。
僕は小品を一曲、引っさげていきました。
曲を聴いて先生は
「曲になってない!」と一言(涙)
そして子供だった僕にはよく訳のわからなかった、先生の現代作品を聴かせて下さいました。
小学校4年生に作曲を教えるなんて希有だったのかもしれません。
東中野まで、横浜の西外れから通うのは大変だとおっしゃって、逗子の先生を紹介されました。
逗子のその先生も、そんな子供は教えられないと最初おっしゃったそうですが、通うことを許されました。その先生こそが、我が師匠、尾高惇忠先生です。
内田先生にはそれ以来お会いしておりませんが、芸大の同期が先生の弟子だったり、音楽教室の先生が近況をご報告して下さったりなど、僕の名前は覚えていて下さったそうです。ただ、あれから一度もお会いしていませんから、先生の記憶にはいつまでも小学校4年生の僕が残っていたのでしょうね。
数年前に、亡くなられてしまいました。
僕が今持っている伊和辞典は、内田先生が、音楽をやるならイタリア語辞典を買う事を、帰りがけに薦めて下さり、帰りがけ新宿の本屋に寄って買ったものです。
今もその辞書を使う度に、僕はあの日の事を思い出すのです。 |
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